藤原房前
ふじわらのふささき
(681-737)
飛鳥時代後期~奈良時代前期の公卿
藤原北家の祖
藤原不比等の次男。23歳で巡察使となり、主に東海道の行政監察に当たる。717年に兄武智麻呂を差し置いて参議へ昇進。元明上皇の信任篤く、その遺詔を長屋王と二人で受け、内臣として元正天皇の補佐を務める。728年には新設の中衛府の大将に就任。長屋王の失脚後は参議に留め置かれ、兄の後塵を拝するようになった。当時流行していた天然痘によって兄弟に先んじて急死するが、子孫の藤原北家は藤原氏の本流として大きく繁栄してゆく。
言問はぬ 木にもありとも 我が背子が 手馴れの御琴 地に置かめやも
物言わぬ木ではあっても、あなたが弾きなれた琴を、どうして膝から離せましょうか。
「万葉集」
巻第五・第812番
大伴旅人が贈った琴と歌への答歌
関連人物
- 元明上皇(第43代天皇):病床において房前と長屋王に後事を託した。
- 元正天皇(第44代天皇):房前が内臣として補佐。
- 藤原不比等(公卿):父。
- 藤原武智麻呂(公卿):同母兄。長屋王を失脚させ、藤原四子政権を確立。
- 藤原宇合(公卿):同母弟。
- 藤原麻呂(公卿):異母弟。
- 藤原光明子(聖武天皇の皇后):異母妹。
- 藤原永手(公卿):次男。聖武朝・橘諸兄政権では不遇にあった。
- 藤原真楯(公卿):三男。藤原北家の主流・摂関家の祖となった。
- 藤原魚名(公卿):五男。後世に地方官や院近臣、武家を輩出した魚名流の祖。
- 長屋王(皇族):左大臣として朝政を担うが、誣告により自害させられた。
- 大伴旅人(公卿・歌人):大宰府滞在時に房前と歌の贈答をした。
参考資料
- 菊池容斎:「前賢故実」より
(2016/10/03 改作)