藤原忠平
ふじわらのただひら(880-949)
平安中期の公卿
藤原基経の四男。長兄時平の死後に氏長者を継ぐ。以降、醍醐天皇の下で昇進を重ねて左大臣となり、927年に「延喜格式」を完成させる。のち幼少の朱雀天皇の摂政、次いで関白として朝政を後見し、晩年は村上天皇の関白を務めた。また公家の儀礼作法に通じ、子の実頼と師輔に伝授し、それぞれ小野宮流と九条流の流派へ結実。藤原摂関政治の礎を築き、後世に「貞信公」と仰がれたが、在世中は平将門や藤原純友が東西で反乱を起こした時期でもあった。
をぐら山 峰のもみぢ葉 こころあらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
小倉山の紅葉よ。もしお前に人の心があるなら、
もう一度行幸があるまで、散らずに待っていてほしい。「拾遺和歌集」
小倉百人一首・第26番
関連人物
- 醍醐天皇(第60代天皇):義弟。忠平の補佐で「延喜の治」を行った。
- 朱雀天皇(第61代天皇):甥。忠平が摂政・関白として後見。
- 村上天皇(第62代天皇):甥。忠平が関白として後見。
- 藤原基経(公卿):父。摂政・関白・太政大臣として権勢を振るった。
- 藤原時平(公卿):長兄。「延喜格式」の編纂を忠平が引き継いだ。
- 藤原実頼(公卿):長男。氏長者を継ぎ、円融天皇の摂政となった。
- 藤原師輔(公卿):次男。天皇の外戚となり、後の摂関家全盛の礎を築いた。
- 平将門(武将):家人。後に関東で反乱を起こした。
- 藤原純友(地方官):遠縁。瀬戸内海の海賊と結んで反乱を起こした。
参考資料
- 月岡芳年:「新形三十六怪撰」より
参考リンク
- 藤原忠平の歌(やまとうた)
(2012/02/22 改作)