松平定信
まつだいらさだのぶ(1759-1829)
江戸後期の大名・老中
陸奥白河藩第3代藩主
徳川宗武の七男。松平定邦の養子として白河藩主を継ぎ、天明の大飢饉に際して領民救済に努め、名君と讃えられた。田沼意次の失脚後、28歳で老中に就任。農本主義を基調とした政策で田沼時代を否定し、農村の復興、綱紀の粛清、人足寄場の設置、朱子学の復興といった「寛政の改革」を断行する。しかし極度の緊縮政治に幕閣や庶民の反発が強まり、わずか6年で辞職。以後は再び白河藩政に専念、古美術図録「集古十種」など多くの著作を残した。
関連人物
- 徳川吉宗(第8代将軍):祖父。寛政の改革の模範とされた。
- 徳川宗武(田安家当主):実父。吉宗の次男。
- 田沼意次(老中):政敵。重商主義政策で田沼時代を築くが、定信が刷新した。
- 光格天皇(第119代天皇):実父典仁親王への尊号宣下を巡って定信と対立。
- 徳川家斉(第11代将軍):主君。幕政方針や尊号一件などを巡って定信と対立。
- 谷文晁(絵師):定信に仕えた御用絵師。
- 大田南畝(狂歌師):改革を批判する落首を作ったと疑われた。
- 頼山陽(歴史家):交流。著書「日本外史」を定信に献上した。
- 林子平(経世家):海防の必要性を説くが、幕政批判として処罰された。
- ラクスマン(ロシアの使節):通商関係の樹立を求めたが不成立に終わった。
参考資料
- 松平定信自画像(鎮国守国神社蔵)