足利義教 / 義円
あしかがよしのり / ぎえん
(1394-1441)
室町幕府第6代将軍
足利義満の五男。10歳で青蓮院に入り、義円と号して後に天台座主となる。兄義持の死後、群臣の立会いでクジ引きによって後継となり、還俗して将軍に就任。当初は宿老との合議に従うが次第に専制を志向し、延暦寺への抑圧、永享の乱による足利持氏の討伐、有力守護の家督問題への介入など将軍権力の強化を図った。意に従わない者を徹底して弾圧する治世は「万人恐怖」と呼ばれ、粛清を恐れた赤松満祐父子によって暗殺された(嘉吉の乱)。
…盃が重ねられ、猿楽が始まった頃合い、赤松の邸の奥から轟音が響いた。将軍が「何事か」と尋ね、相伴していた正親町三条実雅は「雷鳴でしょうか」と答えるや、背後の障子が開かれ、数人の武者が座敷に踏み込み、一瞬にして将軍の首を刎ねてしまった。…将軍の亡骸の前で腹を切る者はなく、落ち延びんとする赤松を追い掛けて討とうとする者もいない。その不行届きは言いようがない。諸大名は赤松に同心していたのだろうか、納得できないところである。結局は、赤松を討とうという将軍の企てが露見し、逆に先手を打たれたのだという。自業自得ではあるが、果たして将軍の無力とだけで済もうか。将軍のこのような犬死は、古来よりその例を聞いたことがない。
伏見宮貞成親王「看聞日記」
嘉吉元年(1441)6月25日条
関連人物
- 足利義満(第3代将軍):父。義教の施政の手本とされた。
- 足利義持(第4代将軍):兄。義教によって多くの政策が覆された。
- 足利義勝(第7代将軍):長男。夭折したため自身の実績は皆無。
- 足利義政(第8代将軍):三男。父が横死した影響か政治力に乏しかった。
- 後花園天皇(第102代天皇):義教の仲介で称光天皇の後継に迎えられた。
- 畠山満家(管領):穏健派の宿老として義教の執政を制御していた。
- 三宝院満済(真言宗の僧):政治顧問。重臣との取次役として信任された。
- 足利持氏(鎌倉公方):かねてより幕府を敵視し、永享の乱で敗死。
- 上杉憲実(関東管領):幕府との協調を堅持し、義教と持氏の融和に努めた。
- 赤松満祐(播磨守護):義教を宴席で誘殺し、自らも山名持豊に討たれた。
- 日親(日蓮宗の僧):義教に法華信仰をすべく諫言したため弾圧を受けた。
- 音阿弥(能役者):世阿弥の甥。義教の庇護を受けた御用役者。
参考資料
- 足利義教木像(等持院蔵)
- 足利義教像(妙興寺蔵)
(2017/03/07 改作)