広田弘毅
ひろたこうき(1878-1948)
明治時代~昭和前期の外交官・政治家
第32代内閣総理大臣
福岡県出身。早くから玄洋社に出入りし、思想的影響を受ける。東京帝国大学法学部を卒業して外務省に入り、駐ソ大使などを歴任。斎藤内閣、岡田内閣の外相として和協外交を掲げながら、日中提携・満洲国承認・共同防共の広田三原則を中国に要求。1936年の二・二六事件後に組閣すると軍部大臣現役武官制を復活させて軍部の主張に屈し、その後の第1次近衛内閣で日中戦争の拡大方針に妥協する。敗戦後にA級戦犯とされ、東京裁判で文官唯一の死刑となった。
関連人物
- 頭山満(国家主義者):玄洋社総帥として広田と交流。
- 斎藤実(第30代首相):広田が外相として初入閣し、五相会議に参加。
- 岡田啓介(第31代首相):広田が外相としてソ連との北満鉄道買収交渉を妥結。
- 天羽英二(外交官):欧米の対中援助に反対する非公式談話(天羽声明)を公表。
- 永野修身(海相):大陸・南方への進出を定めた「国策の基準」の策定を推進。
- 寺内寿一(陸相):浜田国松との「割腹問答」で内閣総辞職を招いた。
- 近衛文麿(第34代首相):広田が外相として日中戦争の強硬方針に妥協。
- グルー(駐日アメリカ大使):広田と緊密な関係を築き、日米関係を維持。
- マリク(駐日ソ連大使):広田と非公式での和平交渉を行うが失敗。
- 吉田茂(第45代首相):外務省の同期。戦前は親英米派の外交官として従事。