細川勝元
ほそかわかつもと
(1430-1473)
室町時代中期の武将・守護大名
室町幕府管領、土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護
細川持之の嫡男。父の死を受けて家督を継ぎ、16歳より3度管領に在任。宿老山名宗全の養女を娶って連携を深めるが、赤松氏の再興を助けた事で亀裂が生じる。将軍足利義政の後継問題では義視を支持し、義尚を擁する伊勢貞親ら将軍側近を追放(文正の政変)。ここに畠山氏・斯波氏の家督争いや諸大名の対立などが複雑に絡み、1467年に応仁の乱が勃発。将軍義政を擁して東軍総大将として戦うが、長期化した戦乱を打開できないまま病没した。
山名宗全は70歳で力尽きた。細川勝元は44歳、いまだ強健な年齢であった。血気に誇って争いをなす者の、一方が果てれば他方も必ず死ぬというのは、例のない事ではない。
…山名が死んで50日も経たないうちに、勝元が天寿を全うせず死んだのは、天の為すところである。兵書に曰く、「兵は凶器なり。争いは逆徳なり。徳を修せずして威をもって人に勝たんとすれば、天またその魄を奪う」とは、真実だったのだ。「応仁記」巻末
関連人物
- 足利義勝(第7代将軍):偏諱「勝」を与えた。
- 足利義政(第8代将軍):大乱勃発後、勝元の要請で東軍に将軍旗を与えた。
- 足利義視(足利氏一門):勝元らの支持を得て将軍後継に擁立された。
- 伊勢貞親(政所執事):将軍後継に義尚を推して対立し、文正の政変で失脚。
- 畠山政長(管領):勝元派。御霊合戦で敗退後、東軍に属した。
- 斯波義敏(越前守護):山名派の斯波義廉を討つべく東軍に参陣。
- 京極持清(侍所頭人):伯父。縁者として東軍に参陣。
- 赤松政則(侍所頭人):旧領を山名一族から奪回すべく東軍に参陣。
- 山名宗全(但馬守護):舅で西軍総大将。晩年は東軍との講和を模索した。
- 大内政弘(周防守護):西軍副将格。瀬戸内の制海権を巡りかねてから敵対。
- 細川政元(管領):嫡男。後に明応の政変を引き起こした。
- 洞松院(尼僧):娘。後に還俗し、赤松政則の後妻として赤松家を支えた。
参考資料
- 細川勝元像(龍安寺蔵)
- 藤原種久:細川勝元坐像(龍安寺蔵)
(2017/03/05 改作)