新田義貞
にったよしさだ
(1300?-1338)
鎌倉時代末期~南北朝時代の武将
建武政権武者所頭人
上野国出身。当初は足利氏に従属する無位無官の御家人だった。元弘の乱で幕府方として河内千早城攻めに従軍中、帰郷して倒幕を決意。関東の反幕府勢力を加えながら南進して鎌倉市中に乱入し、北条氏を滅亡へ追い込んだ。建武政権では武者所の頭人として足利尊氏の対抗馬となり、摂津湊川で楠木正成と共に迎え撃つが敗退。以後、恒良・尊良両親王を奉じて北陸へ下り、足利方の斯波高経と抗争するも、越前藤島で伏兵に遭って不慮の戦死を遂げた。
内海外海の龍神八部衆に仰ぎ願う。
我が忠義をもって潮を万里の彼方へ退け、我が軍の道を開きたまえ。「太平記」
巻第十『稲村崎成干潟事』
関連人物
- 北条高時(北条氏得宗):新田軍の鎌倉攻めにより自害して滅亡。
- 北条泰家(北条氏一門):新田軍を分倍河原・関戸で迎撃するが敗退。
- 後醍醐天皇(第96代天皇):主。義貞を重用するも、のち北陸へ遠ざけた。
- 北畠顕家(南朝方の公家武将):足利軍との京都攻防戦に合流して京を奪回した。
- 洞院実世(南朝方の公家武将):義貞と共に北陸へ下り、越前を転戦。
- 楠木正成(南朝方の武将):摂津湊川で共に足利軍を迎撃するが敗死。
- 脇屋義助(南朝方の武将):実弟。義貞に付き従って各地で転戦。
- 新田義興(南朝方の武将):次男。義貞戦死後も足利方と交戦し続けた。
- 足利尊氏(足利幕府初代将軍):新田氏を従属していたが、建武政権内で敵対。
- 足利千寿王(足利家嫡嗣):鎌倉攻めの際、尊氏の名代として奉じられた。
- 赤松円心(北朝方の武将):新田軍の尊氏追撃を播磨白旗城で阻止。
- 斯波高経(北朝方の武将):越前守護として新田軍と交戦、義貞を討ち取った。
参考資料
- 新田義貞木像(称念寺蔵)
(2012/01/30 改作)