崇徳天皇 / 顕仁親王
すとくてんのう / あきひとしんのう
(1119-1164)
第75代天皇
鳥羽天皇の第一皇子。曽祖父白河法皇の後見により5歳で即位するが、白河の没後に院政を敷いた鳥羽と皇后美福門院の意向でやむなく近衛天皇へ譲位。のち嫡子重仁親王の即位に望みを託すも、弟の後白河天皇の即位によって政権への道が絶たれた。ここに摂関家の内紛も絡んで、1156年に後白河方との武力衝突が勃発(保元の乱)。敗北後に讃岐へ流され、失意の余生を過ごした。後世に怨霊として畏怖された一方、歌人としても名を残した。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に 逢はむとぞ思ふ
川瀬の流れが早く、岩にせき止められた急流が二つに分かれるように、たとえあなたと別れたとしても、いつかきっと巡り逢おうと思っている。
「詞花和歌集」
「小倉百人一首」第77番
関連人物
- 鳥羽法皇(第74代天皇):父帝。「古事談」は白河法皇が実父と伝える。
- 待賢門院(鳥羽の中宮):生母。美福門院に権勢を奪われて出家。
- 美福門院(鳥羽の皇后):継母。鳥羽の寵愛を受け、崇徳を疎んじていた。
- 近衛天皇(第76代天皇):異母弟。鳥羽の意向で即位するが病で早世した。
- 後白河天皇(第77代天皇):同母弟。当初は皇位とは無縁な道楽者だった。
- 重仁親王(皇族):第一皇子。皇位の道を絶たれ、乱後に出家して早世。
- 皇嘉門院(崇徳の中宮):忠通の娘。子に恵まれず忠通と崇徳の板挟みにあった。
- 藤原忠通(摂関家):美福門院と提携し、崇徳・重仁の排除を画策。
- 藤原頼長(摂関家):忠通と対立して失脚し、復権のため崇徳を擁立。
- 源為義(源氏の武将):保元の乱で崇徳方につき敗北、子義朝の手で処刑された。
- 平忠正(平氏の武将):保元の乱で崇徳方につき敗北、甥清盛の手で処刑された。
- 源為朝(源氏の武将):保元の乱で崇徳方につき敗北、伊豆大島へ流された。
参考資料
- 「天子摂関御影」より(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
参考リンク
- 崇徳院の歌(やまとうた)
(2017/10/15 改作)